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[別記] AIRの劇場版とテレビ版

最初にテレビ版を4話まで見た後に放置していて
劇場版を見てから改めてテレビ版を最後まで見ました。
原作ゲームは知らないけどテレビ版が原作に忠実だと聞いてました。
だから劇場版が原作と違うのは序盤の展開からも分かってました。
劇場版の感動の余勢をかって一気ににテレビ版も見てみたんだけど
ポイントになるシーン・セリフを劇場版では違う場所で使ってたりして
なるほどコレをアレに再構成したのかとその手腕に感服したのです。

と言うわけで構成の違いを詳細に比較してみました。
以下100%ネタバレなので未見の人は読まないことをオススメします。
ARIAもこんな感じで別にしておけばよかったかも。
※原作は知らないので全てテレビ版との比較です

あとこれは劇場版・テレビ版のコメントより後に書いた内容で
すでに書いた内容を詳細に書きなおした部分もわりとあります。

出会い。
テレビ版のいきなり御鈴が声をかけてくるのは変です。
いちおー先に進むとなぜ御鈴が声をかけてきたのか理由がわかるけど。
クラスメイトとかは御鈴の病気(呪い)を知ってて相手をしてくれないから
あえて知らない人に声をかけたのはそれなりに説得力がありました。
しかしそこに至るまで変だという印象しか残らないのも事実。
さらにテレビ版では続いてサブヒロインとの変な出会いが続くので、
いかにも美少女アニメらしい作品って印象が強くなるのでした。
※美少女アニメは出会いのシチュエーションがいい加減なのが多い
実はこのへんを見てて「絵がキレイになっただけ」のKanonと思った。

劇場版では最初の出会いは偶然。だけどお互いが認識してる。
そして再び往人を見かけた御鈴は勇気を出して声をかけてくる。
御鈴が一方的に認識して往人から見えない伏線の意味をなさない
テレビ版よりも出会いのシーンとしては圧倒的に説得力があります
と言うかテレビ版の設定でもまずインパクトのある顔合わせをして、
一度別れてから御鈴が遊ぼうって声をかけた方が良かったように思う。

口癖。
いわゆる「ガオー」とか言うアレです。
テレビ版を見ててむちゃくちゃ違和感あるんだよあのキャラ描写。
この手の変な口癖はエロゲーアニメの伝統みたいな側面があるけど
キャラの実体感が損なわれて緊張感をぶち壊すって分かってない。
(テレビ版すら終盤の展開ではキャラ描写を軌道修正してるし)
D.C.のさくらは「うにゃ」って口癖を言うけど、アニメでは喋り方を
工夫して露骨に口癖に聞こえないようにしてあって感心したよ。

この口癖も劇場版では使い方をさり気なく自然な感じにしてある。
雰囲気をぶち壊すのをわかってて、原作のカラーを尊重するために、
あえて変な口癖を使うために、最大限に苦心して埋めこんである
「御鈴ちんピンチ」なんてシーンが絶妙すぎて不自然さが全くないし。
これ劇場版しか見てないと変な口調の一つだなんて気づかないよ。

呪い。
御鈴が友達と遊ぼうとすると泣き出してしまうという呪い。
これは神奈に受け継がれた呪いが転生した後にも残ってる設定です。
他人と関係を深めようとすると発動するって意味なのだろうか!?
いきなり激しく泣き出してしまうのはインパクトが強いんだけど
いまひとつ整合性が弱いというか展開からでっち上げた感が強いかな。

劇場版は呪いを受け継いだというより同じ運命という描きかたに。
過去の流れを全て説明しないと成り立たないテレビ版の設定をやめて
あえて説明をしない奇病(呪い)として描くことにしたわけです。
さらに他人と関係を深めようとすると発動するという呪いの意味を
人を好きなるほど体が蝕まれ「好き」と伝えると命を落とすみたいに
悲劇的でドラマチックで尚且つわかりやすくアレンジしてある。
このへんあまりに恋愛至上主義的で少女マンガのようだなと(笑)。

他人と関係が深まれば具合が悪くなるから他人との関わりを避けていた
それ故に不登校だったって設定に、なるほど!と感心してしまったり。
遊ばなければ呪いが発動しないテレビ版ってなんか唐突だしね。

夢。
御鈴が見るどんどん過去にさかのぼる連続した夢。
これは前世である神奈の記憶を垣間見てるって意味です。
そして夢が進むにしたがって奇病が進行し最後に死に至る。
翼人の魂は人の器には大きすぎて受けとめられないからだそうで。
夢を見始めたきっかけが往人と出会ったからなのかはわからない。
と言うかこの設定だと往人と出会う必然性もあまり無いっすね。

劇場版は夢に関しては丸っきりカット。
代わりに御鈴の街に伝わる翼人伝説を自由研究で調べる展開に。
そして調べていった神奈の話を御鈴の現在と重ねるように描いてる。
これてっきりテレビ版の夢と過去編を構成しなおしたんだと思ったよ。
とりあえず全然違う過去編でのストーリーの違いは置いとくとして
劇場版は過去と現代を重ねて描くことで関連性をより強調してるのです。
※テレビ版の奇病の進行は劇場版では呪いに統合されてる

テレビ版の構成だと夢の内容は絵がないので実感としてわかりにくい。
(夢の時間が戻っていくのもわかりにくい上に必然性が見えない)
これゲームだと文字だからもっと詳細に描写してある可能性が。
だけど映像作品であまり言葉を多用するとテンポが死んでしまう。
だからあえて絵として挿入した劇場版の構成はなかなか絶妙ですよ。
テレビ版もいっそ御鈴の夢を絵で見せても良かったような気がしたり。

過去。
御鈴の呪いと奇病の理由と往人の祖先の話。
先に劇場版を見てたのでアレ全然違うし、とか思いつつ見てました。
しかし現代のかなり深刻な状況を置いて長閑な過去編が展開するのは
ストーリーの構成としてはいったいどーよ!と思ったりするんですが。
神奈と柳也と裏葉が神奈の母に会うために一緒に旅をする展開は
かりそめの家族みたいな三人の構図を描くことに意味があった感じ。
(もちろん現代のいろんな設定を説明する側面も有ったけど)
これ見てて劇場版の最後の三人の構図はこれの対比なんだと気づいた。
テレビ版も最後にそうなるのかと思ったら往人はカラスだし……

劇場版の過去編はすでに書いてるけどテレビ版と全く違います。
時間が限られるので現代編の設定の説明という側面を捨てて
過去と現代を対比させる形でエッセンスだけを再利用してる。
つまり御鈴が神奈の生まれ変わりって設定ははっきり示さない。
単に同じような奇病(呪い)を持ってるって感じに描いてる。
(これだけでも御鈴は生まれ変わりだという解釈はできる)
往人は柳也の子孫という設定も全く存在しない。
だけど御鈴と往人の関係を神奈と柳也の関係と対比して描いてるので
往人がそこに存在する意義はテレビ版よりむしろ大きいと言える。
さらに御鈴は自分を神奈と重ねることで自分の運命を予見してる。
すでに死期を悟ってて最後の一瞬に輝こうとしたように描いてる。
だから往人との過去は無いのにテレビ版より運命的に見えるわけです。

サブヒロイン。
テレビ版ではサブヒロインの佳乃と美凪のエピソードが語られます。
この二人の話も家族の関係を描くという意味でテーマに添ってるけど
序盤に本筋から離れた内容を描くのは構成としてどーなのかなと。
本筋の物語に引きこむまでやってはいけない手法なんですが。
でも、この展開だと本筋に引きこんだ後にやりようが無いけど(爆)。

劇場版を見て気づいたけど劇場版の神奈が最後に羽を撒き散らすのが
テレビ版のサブヒロインたちの羽のエピソードに繋がってたりする。
でもテレビ版にはそのシーンが無いね。劇場版で作ったシーンなのか?
それとも原作にはあってテレビ版ではカットされたシーンなのか!?
劇場版を見た方が原作に近いテレビ版の理解が深まるのってどーよ?

劇場版ではサブヒロインの話は完全にカット。
本筋の物語を語る上で必然性がないので仕方ないです。
サブヒロインのファンの人には申し訳ないけどこの構成の方が妥当。
つーか1クールやった君望ですら中心の三人以外は完全に脇役だし。
時間に余裕があって尚且つストーリー構成で不自然でない形でしか
サブヒロインのエピソードを物語中に埋めこむのは不可能です。
今さらにD.C.(1期)の構成は凄く上手かったのだと思い知ったよ。

そういえば劇場版で御鈴がお母さんをヨロシクと祈るシーンは
佳乃のお姉さんをヨロシクを再利用したシーンだったりするね。
佳乃は構成上出すことは無理だけど可能な限りパーツを再利用して
原作のエッセンスを再現しようと苦心してるのがよくわかる。
御鈴の街にある神社が翼人伝説の舞台で神奈を奉った場所っていうのも
佳乃の羽と過去編を組み合せつつ設定を集約した感じになってるし。
つーか劇場版を見てててっきりこっちが本来の設定かと思ったよ。
ここに限らず個々の設定の融合度は再構成した劇場版の方が強いです。

家族。
テレビ版のメインテーマである家族の関係。
御鈴と晴子さんとの関係。サブヒロインたちのエピソードもそう。
序盤はまだお互いにホントの家族として対することができないでいる。
だけど終盤に至って心を決めてホントの家族になろうとする。
実は言葉とは裏腹に序盤から互いに相手を思ってるのは見えるので
仮にソラで裏側から見るシーンが無くても唐突な感じはあまりないよ。

ホントの家族になれたと思ってたのに病状が進んで記憶を失うのは
晴子への試練と最後の時が近づいてる予感という意味があります。
せっかくホントの家族になったのに再び一から始めないといけない、
さらに間の悪いことに御鈴の実の父が引き取るとか言い出すし。
このへんは序盤のだるい展開とは対照的に素晴らしい内容だったなと。
ここに至ればさすがにテレビ版AIRの素晴らしさがわかって来るね。
しかしここまで初見の視聴者を引きつけて来れるかと言うと微妙としか。
(原作ファンは中身を知ってるからついて来るだろうけど)

ところで記憶を失うシーンを見ててD.C.で音夢が記憶を失う展開って
もしかしてAIRのここから引用したのかな?とか思いました。
D.C.はいろんな作品のエッセンスを引用してると聞いたことがあるから。
どちらも原作を知らないし時期の前後も知らないのであくまで印象の話。
でも影響を受けたと思ったほうが自然なほどシチュエーションが似てる。
しかし(引用した?)D.C.の方が記憶喪失の使い方が上手いよーな(爆)。

劇場版では家族の扱いがかなり違います。
家族の繋がりをテーマとして描くには時間が足りないので
家族も含めて人を好きになるという意味に集約してしまってる。
(テレビ版は)家族を描くことと往人さんとの物語に関連性が薄いので
限られた時間で描く場合はどちらかを捨てるしか方法は無かったのです。
ここで往人さんを全カットするという大胆な選択肢も有ったけどね。
まだ劇場版の選択の方が筋を残してるだけ原作を尊重してると思うよ。

次第にホントの家族になっていくというテレビ版の意味づけは
呪いとリンクして原因不明の症状がどんどん進行する形にしてある。
だって家族になっていくということは他人を好きなることだから
テレビ版の病気が進行する要素と二人の距離が近づいていく意味を
こんな形に集約して再構成してしまったことは脱帽の一言です。
テレビ版にない思い出の写真を掘り出して燃やすシーンなんかも
二人の距離が決定的に近づいたことを実感される内容になってるし。
そしてこの学校に忍び込むあたりは御鈴の先が短いのを予感させてる。
だからこそできる限り楽しもうとする御鈴の姿は涙を誘うのです。
にしてもこのへんD.C.(アニメ)終盤の美春と頼子の話を彷彿とするね。

そんな感じで劇場版ではテーマこそ家族の繋がりではないけど
テーマが持つエッセンスはきちんと埋め込んで描かれてるのです。
テレビ版の大筋の展開とテーマのエッセンスを可能な限り尊重しつつ
限られた時間で描けるように大胆に再構成したその手腕は凄いなと。
しかも劇場版の展開の方が終盤の往人に存在意義がずっとあるし。

ソラ。
カラスです。と言うより途中で往人がカラスになるんですが。
そして御鈴と往人が出会ったあたりからの展開を違う側面で見ていく。
これ今までよく見えなかった部分を見せるという意味は確かに有る。
でもそれなら往人の魂が一時的にカラスに入るだけで十分のような。
カラスになった時間まで見て戻れば法術が見せたとも解釈できるけど
その後もカラスのままなのであまりに説得力に欠ける展開でした。

とか思ってたけど、なんでカラスのままなのか今気づいたよ……
たぶん原作ゲームが往人の一人称視点だからいなくなった後の
展開を見せるためにはカラスの中に入るしか無かったってことだね。
それをそのままテレビ版はトレースしたんだろうな。
しかしそう理解してもこの設定にまるで説得力がありません
ゴールの後に晴子さんがソラに言うセリフも正直言って蛇足だし。
呪われた輪廻の運命から解き放つ役割も往人は全く果たせてないし。
終盤の往人の使い方には疑問を覚えずにはいられない。

劇場版では御鈴と友達のカラスという設定になってる。
自分が死んだら魂を空に運んでもらうって御鈴が言うけど
これは神奈が最後に大空に飛び立つシーンと重ねている。
さらに晴子さんの言葉の意味を生かしたという側面もある。
ここは劇場版の御鈴が言うセリフの方が切実さが滲み出てるね。
(劇場版は最初の段階から自分の死期を悟ってるみたいだし)

劇場版もテレビ版と同じように往人は御鈴の前から逃げるけど
劇場版では本来の目的(祭で稼ごう)を思い出して戻るのです。
と言うか劇場版は御鈴から逃れられない運命みたいに描いてる。
バスに乗って街を出てみようとしたのに途中で終点だし、
しかもそれが最終バスで街へ戻らざるをえなくなってるし。
街に戻ったのは仕方ないことで再び会う気は無かっただろうけど
近い場所にいれば再び会ってしまうのがまさに運命って感じ。
バスの終点までソラが追っかけて来てたのも実に意味深だなと。
オマエは御鈴を見捨てて逃げるのか?と責めてるみたいで。

ゴール。
御鈴が決めた人生のゴール。
往人さんに頑張れと言われたから一人でも頑張ってきたけど
ここまで頑張ったからもう終わりにしていいよね?ということ。
このシーンはテレビ版だけ見てればとても感動的なシーンです。
しかし先に構成の素晴らしい劇場版を見てしまったので……
いやもちろん劇場版を先に見てたとしてもテレビ版は感動的だけど
終盤のポイントになる部分を一点に集約してる劇場版と比較すると
ポイントがいくつか分かれてるテレビ版は感動も分散してしまってる。

劇場版で「ゴール」「海に行きたい」「髪を切る」が集約されてるのは
テレビ版と比較して改めてその再構成の凄さを感嘆した部分です。
テレビ版だと髪を切るのはあくまで日常の一シーンに過ぎないのに
劇場版では最後の晴れ舞台を前に禊をするような意味付けにしてある。
海に行きたいは過去編に重ねることで、果たせなかった小さな願いを
時を越えて改めて果たす、それが最後の望みという感じにしてある。
(このへんを見てるとやっぱ生まれ変わりみたく描いてるようだ)
自分を神奈と重ね往人と柳也を重ね、これで願いが叶ったから
だからもうゴールしてもいいよね?に繋いだ展開はお見事でした。
テレビ版の呪いの輪廻って意味でも劇場版の方が多少は救いがあるし。
てっきりテレビ版もこうだと思ってたから実際に見てアレ?と思ったよ。

以上詳細に比較してきて思ったこと。
劇場版はテレビ版のエッセンスを短い時間に凝縮するために
あまり重要でないエピソードを端折るという手法を取らずに
設定そのものを大幅に差し替えて再構成してしまってる。
説明不足にするぐらいならと最初から無かったことにしてる
再構成する過程でテレビ版の持つ設定の不自然さや詰めの甘さを
ついでに修正してしまったので物語としての完成度も高くなってたり。

テレビ版(原作)と全然違うという意見はもちろん理解できる。
でもテレビ版と違うからダメって意見には全く賛同できないね。
そもそもテレビ版のストーリーを90分で描けるわけがないのに。
もしも無理矢理テレビ版のストーリーをトレースする映画を作ってたら
あちこち端折られ説明不足な感動と程遠い作品になった可能性が高い。
テイルズオブファンタジアのOVAといういい例があるので見てご覧よ。
もしくはテレビ版を自分で90分に編集してみればいい。できるものなら。

削ることで説明不足にしないために大胆に再構成するという手法。
でもテレビ版で重要なパーツは見事なぐらいに劇場版でも使っている。
テレビ版と比較してて思ったけど、むしろ原作をよく知る人の方が
この劇場版のストーリー構成の凄さは実感できると思うんだけどね。
だってこんなに内容が違うのにちゃんとAIRになってるんだから。
全く感動は薄れてないし、むしろはるかにパワーアップしてるし。
原作を蔑ろにしてるとか理解してないとか馬鹿言ってんじゃないよ、
趣旨をよく理解してたった90分の中に凝縮して描いてるじゃないか!

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