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灼眼のシャナ 1~4話

10月から一部の民放(5局)で深夜に放送してる新番組。
来年1月からアニマックスでもやるので地上波で見れない人はそちらで。
原作はライトノベル(電撃文庫)で読んだことありません。
この春高校生になった坂井悠二は新たな学校生活にも次第に慣れてきた。
仲のいい友達と遊んだりな、あたりまえの日常がずっと続くと思ってた。
しかし、その日学校帰りに寄り道をしたことで彼は世界から外れてしまう。
商店街で偶然出会ったクラスメイトの平井ゆかりと別れた直後に世界は止まり、
そこに巨大な人形が出現して人を炎に変え次々と食べていったのだった。
その異様な光景に驚き叫び声をあげた悠二に人形は襲い掛かってくる。
もうダメだと思った時、目前に燃えるような色の髪と目をした少女が現れた。
彼女は大太刀を振るい人形を退け、悠二は辛くも助かった、そう思った。
しかし彼女はこう言った「おまえはもう存在していないのよ」と。

まず思ったのはモノローグ風に状況説明をするのがノベルっぽいってこと。
と言うか最近ノベルの映像化で一つの方法論として確立した表現手法すね。
そして次に思ったのは最近のライトノベルらしい内容だなってとこかな。
でも売れたのは流行の内容だけではない魅力があるからなんだろうけど。
その魅力の一端みたいなのは4話まで見てなんとなく見えた気がするよ。
例えばトーチになった平井ゆかりの最後の日のエピソードだったりとか。
これが紅世の徒VSフレイムヘイズだけの内容なら何も響いてこないわけで。
※紅世の徒→ぐぜのともがらと読む

自分がすでに死んでいてそこにいるのは燃え残りと言われても実感がない。
だけど目前に同じような境遇の人がいて、しかもそれがよく知る人だったら。
他人の中で存在が消えていって自身も消滅する。その過程を見てしまったら。
ただ死ぬのではなく、いたことすら無かったことになるの見てしまったら。
彼女が死んだ悲しさとともに、自分が消える意味を実感せざるをえないわけで。
だからこそ悠二はシャナに名前をつけたり生きた意味を残そうとするのです。

でも、これって何もこの物語の中だけの特殊事情ではないんだよ。
人は死んでも痕跡が残るけど、でもそれは時を経れば次第に細っていく。
だからこそ誰もが少しでも多くの意味を残そうとするのです。子孫とか。
つまり意味を記号化してるとはいえ誰でも共感しやすい内容ってこと
この作品を面白いと思える理由があるとしたら、まさにそこなのです。

ところで作中でシャナがトーチはモノだから恥ずかしくないとか言うけど、
例えば人形はモノだけど喋る人形の前で着替えるのは恥ずかしいのでは?
よーするにソレが生きてるかではなく意識があるかが重要のような気が。
トーチに関してもそう。見かけ上は生きてても実は死んでいるって、
見かけ上は生きてて意識もあるなら生きてるのと同じだと思うんだけど。
近いうちに消えてしまうとしても、少なくとも今は生きてるのと同じ。
なんか意味よりも定義づけを優先してしまってる印象があるよ。
まぁ、そのへん気にはなるけど、面白さにはあまり関係なかったり(笑)。

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